智子さんの絵のはなし
智子さんの通う大学(美大)の発行する雑誌に彼女のインタビューや作品についての文章がまとまって掲載されていて、読んだら色々なものが腑に落ちた。
まず、作品のサイズについて。「自分の作品は書類サイズの域をでない、なぜなら人の人生が書類で管理されるものだから」というような記述をしていた。
私は当然、彼女の作品は最初はインターネットで見た。次に本物をカオス*ラウンジの時に見ているからサイズがどうであるということは、考えもしたことがなかった。だから上記の文章を読んで、初めてそのことについて考えた。
「書類サイズ」「その上にある生死」というのは単純に出生届とか死亡届のような、役所に提出される書類のことだと思うのだけど、人生をそれ以上でもそれ以下でもない、という風にとらえるのは大変偏った見方でもあると思う。
しかし、直感的に私はそれの意味するものがわかる。
少し遠廻りして私自身のことも絡めて考えてみると、
例えば中学生や高校生のころより、私はどんどん真剣に腹を立てたり嫌な気分になったり、逆にだったりと 感情や意識の振れ幅が大きくなっていることを感じる。
理由は間違いなく、担保に掛けているものが大きくなったからである。それは誰でもそうだ。
誰になにを言われようと、関わりなく生きていける時期が終わった。自分の尊厳やともすれば生きていけるか否かにも及ぶ部分まで危機に脅かされる状況に陥った。
当然、それは自分で稼いで食っていく、とか 自分の言動に責任を持つ といったレベルで、至極どこまでも当然のことなのだが、これもまた当然、それは生まれた時から持ち続けている意識ではない。
徐々に脅かされ、削られ、なおかつ獲得するものもありつつ絶望と期待の中で自身の存在を賭けての行為(仕事とか、制作とかかも知れない)をするようになる。それは一見短調な仕事であれ、自分の食い扶持を稼いでいるという意味ではサバイバルである。
そこでまた智子さんの作品の「書類サイズの死」について考える。それ以上でもそれ以下でもない現実の死、どこにでもある日常とその終わりを小さなサイズに限定し、大きなキャンバスやイラストボードに乗ることに抵抗している。それはつまり、自分の紡ぐ絵が人生の開始と終末である生死の問題から逸脱することへの批判なのだと思う。
「アニマ女性」と呼ぶ女性(男性の欲望をどこまでも受け入れ、自我がなく、それ故に老けることもない。「アニマ」つまり男性から見た「女性性」を背負った、欲望の写しとなるような女性)を描く、という彼女の記述もまた改めて、何かを失い続けることを前提としていて「現実を生きていく」ということを真摯に捉えたひとつの精神性だと思う。
彼女ははてなダイアリーで他人の、知らないOLの日常を見ることも好きで、きっとそこにも少なからず他人の女性のアニマ性を感じているのだろう。そして、他人の日常にあるアニマな部分が彼女の作品に、小さく着地している。というようなことを想像する。
しかし、アニマ性というのは当然ひとつの人格を覆うには足りない要素で、どんなに慎ましく、全てに期待しない姿勢で生きているように見える人生でも、人には欲があって待ち焦がれるものもあるだろう。だからこそ、自分の体裁や尊厳のために振舞うし、日常を維持するに足りる動機も誰にでもある。
智子さんの絵にかんしていうと、私は最近どんどん好きになっていっている。特に、今回ジェネシスでの連載の中から出た同人誌企画で寄せてくれた原稿は素晴らしくて、人間の描写以外にも、郊外にあるようなファミレスの風景や扉絵の歩道橋、すべてに一貫して現実をサバイブする意思のようなものを感じるようになった。すべてがだるい、というような見え方の中に強い苛立ちや腹立たしさをストレートに感じる。
そんな中で私は、すこし、今後の展開として、その今は静かに怒っているような空気をもった女の子が、爆発するような瞬間を見せてくれるのを期待している。
書類サイズでしか書かないことで見せているような、煮え切らないことへの怒りや、どこか感じる執着のようなものと、一縷の期待を持っている、目の大きな細い身体の子に彼女の作品の中で会えたらいいな、と思っている。